朝、多紀と別れ一人で学校に向かう。亮がいなくなってから、何となく朝が早くなった。家族は皆起きるのが遅い。康裕が起きる時はまだ誰も目を覚ましていないことが多かった。一人で朝食を済ませて行く事が多かったのだが、しばらくそれを続けるうちに多紀が早く起きてくるようになり、それにつれ全員が早起きするようになった。多紀は電車を降りた後、友達が来るのを待つため駅に残っているが、康裕は早目に学校に行き、元々は自分もいた遅刻スレスレのグループを待つようにした。友達との関係が変わったわけでもなく、いつも通りに過ごしている。変わったのは、起床時刻だけだ。
 入試も終わり卒業を目前に控えた今、学校に思い出を残すことが、三年生の目標になりつつある。康裕にとってもそれは例外ではなかった。 そして、入試後の気の緩みと、不合格が確定的になった生徒のストレスが、いじめを生み出す。対象は、普段目立たず自分達に罪悪感を持たせない相手。反抗せず、いじめに屈しやすい相手だ。そして、横瀬さんはまさにその性格を持ち合わせた人物だった。常に皆から一歩後退したところに位置して、話の中心になることを避けていたが、話しかけられるといつも笑顔で答えていた。横瀬さんはまさに、嫌われる要素のない人だった。しかし、好き嫌いの感情無しに標的を探す不良にとって、格好の的になってしまったのだ。
 だが、横瀬さんは少し位のいじめに負けるような人ではない。上履きを隠されても、自分の椅子がなくなっていても、何もなかったかのように振舞った。だから、康裕も智も、最初はそのいじめの現状を知りさえしなかった。しかし、その行動は、いじめをより深刻にさせるに過ぎなかった。そんなに大したことなさそうだ、とか、こいつには何をしても大丈夫だ、とかいう愚かな考えを、いじめる側の人間は持つようになる。そして、やがてそれは取り返しの付かない事件を生むことになっていくのだ。
 「康裕、帰りどっか寄って行かない?」
 「いいよ! どこ行く?」
 智に誘われ、康裕は教室を出た。この日は、コンビニに寄ってその後に公園で買ったものを食べる、いつもの寄り道コースをたどる事になった。
 二人が玄関に差し掛かると、誰かが泣いているのが聞こえてきた。
 「……おい康裕、どうする?」
 「何だよ、どうするって。とりあえず通り過ぎるしかないだろ」
 「いいのかよ、放っといて。気にならないのか?」
 「なるよ、そりゃ。でも、聞いたら傷付くかもしれないだろ」
そうしているうちに、下駄箱の影から声の主が目に入ってきた。
 「あれ、奈央子じゃん。どうした?」
智が声をかける。智と横瀬さん二人は家がとても近い、幼馴染だ。康裕と同じ学校になるのは、中学が初めてだが、小さい頃よく智と一緒にいたので、顔は知っていた。横瀬さんは少し顔を伏せたが、すぐにこっちを向き直った。
 「大したことじゃないよ。ちょっと指を切っちゃって」
見ると、彼女の指からは赤い鮮やかな血がサラサラと流れていた。
 「康裕、カットバン持ってるよな?」
康裕は一つ頷くと、学ランの内ポケットからカットバンを出して渡してやった。小さい頃かなり喧嘩をし、その度にすり傷や切り傷を負っていたので、自分でカットバンを持ち歩く癖がついていたのだ。
 「気を付けろよ」
智が横瀬さんの肩をポンと叩いた。横瀬さんは軽く笑顔を作って言った。
 「うん。ありがとう。新井君もこれ、ありがとう」