門からでると、智が呟いた。
 「なあ、あいつ、本当に切っただけだったか?」
康裕は急な智の言葉に戸惑った。
 「本人はそう言ってたけど、どうなんだろうな」
 「長いことあいつを知ってるから言える事だけど、奈央子はそんな事で泣いたりするような奴じゃない。大体、よっぽど力強く切らなきゃあんな血の出方はしないよな」
 「……そうだな。でも、多分ちょっと力んだときにカッターで切ったとか、そんな感じじゃないのかな。人間、本当に痛けりゃ泣くだろ。他にああなる理由があるか?」
智は、しばらく考えていたが、
 「いや、無いよな。俺の考えすぎか」
と、結論を出した。太陽は、西の空に傾き始めているものの、康裕と智、そしてこの場所にある全てに、光と影を与えている。二人は真っ直ぐな道を、何か引っ掛かる思いと共に踏みしめていた。
 康裕が家に着くと、多紀が既に帰ってきていた。
 「お兄ちゃん、お帰り」
 「ただいま。夕飯まだできてないよね?」
 「うん。お父さんがまだ帰ってきてないから、ご飯はそれからだよ」
 「分かった。じゃあ風呂入るから。父さんが帰ったら部屋に呼びに来てほしいんだけど」
 「はーい」
父の岳は最近仕事が忙しいようで、帰りが遅くなる事がよくある。それでも夕食は皆で一緒に食べようというのが、新井家の考え方だ。だから、それまでにできる事は、なるべく先に済ませておく。
 康裕は湯船につかりながら、今日の出来事を思い出していた。横瀬さんの指から出ていた血と、帰りがけに智が言っていたこと。あの血は、本当に事故で流れたものなのか。誰かに、故意に傷つけられた可能性があるのか。その可能性は康裕の頭の中で、徐々に現実味を帯びていった。
 体を拭いて寝巻きに着替え、自分の部屋に向かう。少しの間テレビを見て暇な時間をやり過ごす。一日で、唯一自分の為に用意された時間だ。康裕は、その些細なやり取りで感じ取ったいじめという最悪の可能性を肯定もせず否定しきれないまま、自分の部屋のドアを開けた。
 しかし、またしてもその戸の先に繋がっていたのは、教室だった。鐘の音が鳴り響き、光を失ってしまった、暗い教室。雨が降っているわけではなく、曇っているわけでもない。太陽が窓の外に見えるのに、何故かこの教室だけがその光を拒絶している。ただ一ついつもと違ったのは、今まで必ず訪れていたあの激しい頭痛が、全く無い事だ。そして、目の前には電車の中で出会った少年が、康裕の目をじっと見つめながら立っている。そして、その目には、穏やかさが感じられた。
 「これが夢だっていうことが分かるよね」
少年の問いかけに対し、康裕は一つ頷く。
 「俺にはできなくて、康裕にできることはいくらでもある。でも、俺にできて康裕にできない事は二つだけ。分かる?」
今度は首を横に振る。
 「一つは、康裕に俺が思った夢を見させること。具体的には、亮君が亡くなる直前に見せた夢なんかがそう。そして、二つ目は、その夢を現実から持ってこれること。つまり、俺には未来が見れるんだ」
 「ちょっと待てよ。それじゃあ、お前が思ったことが現実になるって事か? もしそうなら亮を殺したのはお前じゃないか。それに、その夢が現実になるんだったら、夢を見た時点で亮は助からなかったんじゃないのか」
康裕がそう尋ねると、今度はその少年が首を横に振って、答えた。
 「夢が現実になるんじゃない。現実を夢に引っ張って来るんだ。『これから起こること』なんてのは、ちょっとした衝撃でも簡単に変える事ができる。でも、その衝撃を与えるためには、何事もなかった場合どうなるかを知っていないと無理だろ? だから、未来を知ってそれを変えられるのは、康裕だけなんだ」
 少年はそう言うと、少しずつ教室の影と同化していった。次に康裕が意識を取り戻したのは、妹の多紀が兄を起こしにやってきた時だった。